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とりとめのないことばかり。

名も無き頃の君へ【文劇5感想】

大好きな舞台文豪とアルケミストシリーズの第五弾「嘆キ人ノ廻旋」を配信で見て、「まだ君の魂の傍にいたいんだ」という台詞で泣いた。涙が溢れて止まらず、多分劇場にいたら隣の人の感動が冷めるレベルで、涙と鼻水に塗れていた。迷惑客にならずに済んでホッとしている。

舞台文豪とアルケミスト(以下、文劇)は、根本にゲームの世界観を残しつつ独自の物語・解釈を展開していくコンテンツだ。私はこの舞台からゲームを始め、今や全国の文学館を制覇せんと意気込む司書になったためかなりの思い入れがある。だからその贔屓目や個人的な感情が文劇を特別な存在にしているのかもしれないと思うのだが、それにしても文劇の持つメッセージやパワーには誰もが良くも悪くも圧倒されるのではないか。

第一弾「余計者ノ挽歌」では太宰と芥川を主役に据え創作者の苦悩と生命の力強さを、第二弾「異端者ノ円舞」では志賀と武者小路の熱き友情と青春を、第三弾「綴リ人ノ輪唱」ではコロナ禍という現実を背景に文豪が個と全体の狭間でもがき文化芸術を守り抜く様を、第四弾「捻クレ者ノ独唱」では尾崎一門を通して師と弟子の絆、後世に継承されていく文学を描いてきた。第六弾となる今回の舞台は一体何を描きたかったのだろう。それを言葉に記しておきたくて、この文章を書いている。

 

文劇5の中心にはまず間違いなく芥川と久米がいる。久米は学生の時分にかの有名な第三次―四次「新思潮」の主要なメンバーの1人だった。第三次では松岡譲、豊島与志雄山本有三、その後菊池寛芥川龍之介といったメンバーを加え、新思潮派として後世に名を残す多くの文豪を生み出したのが「新思潮」だ。作品を世に送り出す中で若き芥川と久米は夏目漱石の門下生となった。特筆すべき点は、創刊号に掲載された芥川の「鼻」が彼に認められたことである。

勉強をしますか。何か書きますか。君方は新時代の作家になる積でせう。僕も其積であなた方の將來を見てゐます。どうぞ偉くなつて下さい。然し無暗にあせつては不可ません。たゞ牛のやうに圖々しく進んで行くのが大事です。文壇にもつと心持の好い愉快な空氣を輸入したいと思ひます。それから無暗にカタカナに平伏する癖をやめさせてやりたいと思ひます。是は兩君とも御同感だらうと思ひます。

夏目漱石の手紙(久米正雄芥川龍之介あて)大正5年8月21日(月)

http://sybrma.sakura.ne.jp/202sousekinotegami.html

 

期待の門下生と言っても過言では無いことが師の手紙から見て取れる。こうした一連の経緯を反映しつつ、今回の物語は進んでいく。

そもそも文アル世界の久米は芥川に対してぎこちない態度をとる。青春時代の良き友でありながら、ライバルである芥川に尊敬と嫉妬を煮詰めたような、何とも言えない複雑な感情を抱いているのだ。これは史実を踏まえての個人的な所感だが、2人は終始学生時代からの良き友人という関係性であったと思う。しかし、作品の知名度は明らかに芥川の方が高く、世間のイメージや作品の性質を考慮すると文アル世界の久米正雄というキャラクター像と付随する芥川龍之介への想いには非常に納得がいく。

 

文劇5での久米は自らの作品、いわゆる純文学を至高の芸術とし大衆文学を劣ったものと見なすため、ポーやラヴクラフトといった異国の大衆作家と対立する。また芥川龍之介との確執を抱え、純粋な魂を持つ自らの聖域すなわち小説の世界に閉じこもった久米は自身が発する負の感情によって侵蝕者に取り込まれてしまうのだ。久米は芥川や菊池といったかつての同志すら聖域に入ることを拒む。それはともするととても独りよがりな行為だった。ところが、久米の純粋な魂にひたむきに向き合おうとする友がいる。その友こそが、芥川龍之介だ。

 

「まだ君の魂の傍にいたいんだ」

物語の終盤、久米は自分の代わりに侵蝕者を取り込んだことで生死をさまよう芥川に向けて、この言葉を悲痛な面持ちで叫ぶ。芥川に対して煮え切らない態度を取り続け、全てを拒絶してきた久米が初めて感情を吐露するのだ。転生したこの世界で初めて、2人は本当の友として対等に向き合う。芥川の才能を早くに見出し、大いに認め、彼こそ最も崇高な純文学の担い手となれると信じていた久米の願いに、胸が痛くなる。現実で先立たれ、この物語の中でも久米は取り残される。その共通した運命を想うと、このシーンの久米の姿は胸に迫るものがある。

 

また、史実で久米先生は純文学への憧れを抱きつつ通俗小説の大家と呼ばれるほどの地位を確立する。しかし皮肉なことに彼が通俗小説を執筆するきっかけとなったのは、破船事件後の菊池寛の勧めだったらしい。劇中、菊池の前で通俗小説が批判されるシーンはなかなか辛いものがある。

 

文劇5の中では様々な二項対立が見られる。純文学とそれ以外の文学、日本と海外の文化の差異…違いを受け止めること、というのは今の世の中で最も難しいことかもしれない。自分と異なる存在、異なる意見は時に受け入れがたいものだ。文豪たちの衝突や和解の様子に現実に生きる私たちの姿を見出してしまう。

 

改めて、文劇5とは一体誰の、何のための物語なのだろう。これは久米正雄の、そして当時の名も無き多くの文学青年のための許しの物語なのだと私は思う。世間に周知され認められ、文壇で名を上げ、文学史に名を残すには長く苦しい道が待っている。文豪の人生を知る度にその厳しさを思い知るのだ。久米と芥川も最初は名も無き文学青年の1人だった。夢を語らい、理想の文学を追い求めた2人。「まだ君の魂の傍にいたいんだ」という本心から出た久米の言葉こそ、許しを請うことと同義に思える。

 

再び文劇の観測者となれたことがとてつもなく嬉しい。文劇6決定、主演・織田作之助の特報を聞いた時には文字通りどうにかなるかと思った。求ム無頼派実装、と言霊を信じて毎日口にしていきたいところだ。

観客を信頼してくれる文劇を、私も信じてしまう。